宮崎県の山は300メートルクラスの岩壁を持つ山もあり魅力的だ。
先の行縢山雌岳西壁登攀の3年ほど前だったと思う、大崩山の小積ダキを登攀した。22歳のころである。
幼稚園、小学校、中学校と幼なじみの窪田雄三君ことクンボウと行った時の思い出である。
クンボウとは中学3年で同じクラスになるまで付き合いはなかった。中学3年の時、登山へ誘った。それ以来の岳友である。
クンボウは中学を出ると商船学校へ行った。卒業後は外航の船乗りさんで一年のうち、数ヶ月を休暇で陸で過ごしていた。
クンボウも私の影響でバイクに乗り、ヤマハのAT125という125ccのオフロードバイクに乗っていた。私はカワサキのTR125に乗っていて、林道をとばしていた。
8月だったと思う。大崩山の小積ダキを攀りに行こうと、二人してバイクで宮崎へ向かった。二台のオフロードバイクが短調なR10を南下する。延岡市から内陸部へと入る。
山間部に入り林道のオフロード走行を楽しみ、大崩山の麓に着く。
青空の下で綺麗な水の流れる河原で野宿をし、翌日小積ダキへ取り付く。
私は14歳のころから兄の影響でロッククライミングをしていた。その面白さに夢中になり、友人を誘って近郊のゲレンデに通い、高校生の時には穂高岳の屏風岩や滝谷なども登って、一端のクライマー気取りだった。
クライミングの腕には自信があり、ゲレンデでは地元山岳会の大人にも負けないと思っていた。
そんな自惚れの強い私が、私よりもロッククライミングが上手い、と認めていたのが大本卓君とクンボウだった。大本君は中学2年生の時、別府市の北部中学で同じクラスになった。ウマがあって何時も一緒に遊んでいた。中学2年生の夏休み、兄に連れられて久住山へ行った。瀬の本からスガモリ越えで坊がツルへ入り馬酔木小屋で一泊、翌日は北千里から久住山登頂。久住別れまで降り星生山の岩壁の上で昼食をとり牧の戸峠へ。
その素晴らしい経験は僕を一発で山の虜にした。
僕はその感動を大本に伝えた。秋の大運動会の日、僕と大本は運動会をサボって九重へヒッチハイクの旅に出かけた。13歳の秋である。
その頃から、大本、江藤で呼び合っていた。この後もブログで彼が登場するときは大本と呼び捨てにする。
大本は技術やバランスは私より上だが、体力が弱かった。その分私が若干有利だったが、クンボウはバランスが良い上に体力もあったから敵わなかった。強いて言えば私の方が登山の知識と経験が豊富だった。
小積ダキの中央フェースは下部は殆どアブミのかけかえのやさしい人工登攀、上部がフリーと人工を交えた4級のルートだ。
僕とクンボウにとっては、おちゃのこさいさいのルートである。
登攀は順調に進み早い時間に下山した。僕らは河原へ置いたバイクまで帰ると、さっそうとバイクに跨り帰路へついた。二台のオフロードバイクが白煙を吐きながら林道を下っていった。
青空と岩峰と渓谷、オフロードバイクと僕の青春を絵に描いた様な二日間だった。
山の彼方の
山の事あれこれ
2020年1月4日土曜日
1980年ころ、行縢山雌岳西壁
ブログの『山のかなたに』に由布岳大ガレ雪崩遭難の記事しか無かった。
何か書こうと思った。
和田ガラミで行縢山雌岳西壁の登攀を思い出した。
1979年、10月だったか、11月だったか、覚えてない。もしかしたら、1980年春の事だったかもしれない。充と行縢山雌岳西壁を登りに行こうと仕事が終わった深夜12時頃に大分市の勤務先、珈琲コヤマを出発した。二人とも車を持っていないので私のバイクで二人乗りしてお隣の宮崎県延岡市の行縢山へ向かった。
バイクはヤマハXT500、単気筒500ccのオフロードバイクだ。
今とは違って高速道路も無いし、バイパスなんども無い、片側1車線の国道10号線を南下する。
オフロードバイクというのは基本的に二人乗りを考えていない。前後の荷重も後輪寄りでフロントタイヤが軽く浮き上がる様な設計である。そこに、後ろに大の男をのせ、さらに二人のリュックサック。このリュックにはテント、シュラフ、食料にタップリの登攀用具が詰め込まれている。それでなくても軽いフロントが益々軽くなってハンドリングが落ち着かない。タンクぎりぎりまで身体を前にやってハンドルを押さえながらでないと登りのコーナーでフロントがアウトへ流れてしまう。
宗太郎峠など幾つかの峠を越すこのルートではかなり力を入れなければならない。
延岡市へ着いて、海岸沿いの国道10号線から内陸部へ向かう。行縢山は海岸線からそう遠くはない。行縢山の麓、行縢神社へ着いたのは3時を回っていただろうか。
駐車場にテントを張ってシュラフへ潜り込み日本酒の四合瓶を取り出す。二人で4合はあっというまだ。疲れと寝酒が効いて直ぐに眠り込んだ。
目が覚めたのは7時過ぎだった。パンをかじって直ぐに出発。西壁の取り付きへも30分とかからない。
行縢山雌岳西壁は300メートルの岩壁だ。傾斜の緩い下部岩壁と真ん中を横切る大きなバンドで垂直にそそり立つ上部岩壁とに分かれている。
下部岩壁はブッシュも多くオーバーハングが続く割にはスッキリとしないルートで、登り出しても緊張感が湧いてこない。
しかも充がワンピッチ登るごとに茂みへ駆け込んで行く。下痢をしているのだ。聞くと寝る前に日本酒を二人で開けた後、こっそりと隠し持ってきた焼酎の4合瓶を開けたというのだ。二日酔いというより、まだ酔っている状態である。
そんな訳でワンピッチ登るごとに長い待ち時間で下部岩壁を登り終えてのは正午を回っていた。
上部岩壁を隔てる大きなバンドをたどれば一般ルートの登山道に出る。充はもうこの登攀は止めよう、帰ろうと言い出した。僕は何言ってんだい、後200メートルも無い、登るど、と上部岩壁に向かった。充は渋々ついてきて僕の確保にあたった。
上部岩壁はそれまでとは打って変わってブッシュ一つない垂直の岩壁だ。ガチガチの花崗岩にハーケンとボルトが連打されている。その間隔はめちゃくちゃ遠くアブミの一段目に乗って垂直の壁から身体が剥がされないように全身の筋肉に力を入れて立ち上がりやっと上のピンへ手がとどく。そんなアブミの架け替えを繰り返して30メートル程登ると右にラインが変わる。この右への移動がまた難しい。
僕は疲れた身体を休ませようとテープアブミに身体をあずけて一息ついた。
その時だった、テープアブミの結び目がジワッ、ジワッと緩んできたのだ。
このテープアブミは僕の手作りでダグ・スコットの本で紹介されていた方法で作ったものだ。もう何年も使っていてヨーロッパでも使った。
僕は一瞬真っ青になった。1秒とかからずテープはスルリと解け僕はそのまま真っすぐに落下した。
僕はこの様な人工登攀のルートではスカイフックという小道具をいつも携帯していた。スカイフックはクロムモンデリでできた4センチ程のフックで先が鍵状になっていて岩の小さな窪みなどに引っ掛けて手が掛かりの補助や時にはアブミを掛けてぶら下がり、登攀の補助に使う。
僕はこのスカイフックに小さなループのシュリンゲを通して手首にぶら下げていた。
垂直に落下した瞬間、とっさにそのスカイフックをハーケンに引っ掛けていた。
片腕にガクンとショックがかかり、伸びきった右腕にぶら下がっていた。
充が「どうした?」と声を掛けてきた。30メートル真下からはなにがあったのか分からないようだ。ここでいらん事を話すと、また帰ろうと言い出すと思い「なんでもない」と答えてアブミを掛け直し登攀を開始した。
このピッチでかなりの時間をついやした。30分以上かかったのではなかろうか。充が登って来るのにまた時間がかかり、太陽が西へ傾いきはじめたのを感じる。
この雌岳の真向かいに雄岳があり共に300メートルの絶壁だ。二つの絶壁に挟まれた雌岳西壁は狭い谷の中にある。2ピッチ、3ピッチと登るうちに太陽は傾き、岩壁にさえぎられ、まだ3時だというのに薄っすらと暗くなった。
この西壁の上部岩壁ルートは垂直の壁に所々に1メートルから1.5メートルの庇状のオーバーハングがある。それがナメクジの形に似てるのでナメクジハングと呼んでいるが、わざわざそのナメクジハングを選って庇ハングでアクロバチックな登攀を強いるようにルートが作られている。
そんなナメクジハングを3つか4つ越さなければならない。庇ハングは庇からの出口が難しく、そうとうの体力をしいられる。
そして時間も。気がつくと太陽はすっかり沈んで薄闇から暗闇の世界になっていた。
僕はヘッドランプと取り出してヘルメットに装着し暗闇の中を残置ボルトを頼りに登り続ける。
確保地点に到着すると自己確保をとり、下の充にオーケーと声をかける。
充はヘッドランプをヘルメットに着けるのに手間取っているようで40メートル真下の暗闇にヘッドライトの灯りがチラチラ動いている。と、その灯りが暗闇の中へスーと吸い込まれていった。
やった、バカが。と罵りたくなる。
充が大声で「ライトを落とした。真っ暗でのぼれん。お前のライトを降ろしてくれ。」と叫ぶ。
此処で僕のライトを貸して、また落とされでもしたら大事だ。この後登れなくなると「だめだ!トップロープを頼りに登って来い。」と叫び返す。
充は指示に従いメクラ登攀でトップロープを引っ張りながら登ってきた。最後のピッチを登り終え雌岳の頂上へ着いたのは7時ころだった。
僕らは一般道を駆けるようにして降った。途中木の根っこに足を引っ掛け前のめりにバタンと転倒した。充が嬉しそうに、「大丈夫か」と言う。なにをこんやた!と思いながら立ち上がると充はえらく元気そうだ。やっと酒が抜けたんだな、もう遅いわ、と毒づく。
下山しテントえお撤収、バイクに跨りいざ帰路へ。しかし大分市まで3時間強、疲れ果てた身体で自信が無い。延岡駅まで行って汽車で帰る事にした。駅に着いたのは9時前で日豊線の登り列車にギリギリ間に合った。
後日、延岡駅に置いてきたバイクを取りにいく。安東圭三君が愛車のコロナマークⅡで付き合ってくれた。これまた仕事が終わってからの夜業である。帰り道、暗い10号線を伴走してくれるのは、実に有難い。大分市へ帰り着いたのは深夜を回っていた。
最後に小さなオチがある。県庁前の信号で止まったとき、圭三君が脇見運転で気づかず、僕のXT500へドン!と追突した。スピードもゆっくりだったのでバイクも僕も被害は無い。OKと合図して我が家へ向かった。
25歳、元気だった。
2016年5月11日水曜日
大崩谷雪崩(おおがれだになだれ)事故
浦島太郎のブログに大崩谷の記事がある。そこに九州では非常に珍しい雪崩事故の話が書かれていている。また事故の当事者の一人である、浦島太郎が通称『問題児』とよんでいる『ワタ』という男の書いた物語的記録がある。
『ワタ』が昭和56年ころ、『アドバンス大分』という大分県の経済ローカル誌に連載したドキュメンタリー風の物語の一部である。
当時、私は24歳でその雪崩事故にあったパーティーの一人であるが、この記録に私は登場しない。浦島太郎のブログを読んで、この事故の私の記録を書きたくなった。
大崩谷雪崩事故のあったのは昭和53年。もう38年前の事だ。その年の暮れ12月22日の土曜日、私の所属する山岳会『大分RCC』の忘年会が大分市内の小さなビジネスホテルの広間で行なわれていた。
男ばかりの会員、十数人が飲めや歌えの酒宴である。山男は酒が強く歌が好きだ。更に分大山岳部OBの会員は芸達者で大いに盛り上がっていた。
この年は九州にしては珍しく降雪が多く、その日は大分市内でも大粒の雪が降って いた。大分RCCの連中は、この雪を見てジッとしていられるような者はいない。酒の勢いもあって「明日は大崩へ行くぞぉ!」と一人が叫ぶと、「オオー!」と盛り上がり深夜までの宴会にもかかわらず翌朝6時には数台の車に分譲して由布岳目指して出発した。
大分RCCは『大分ロック・クライミング・クラブ』の略である。その名の通り岩登りや冬山の氷壁登攀を目的とし、アルプスやヒマラヤの山々を目指したハードな山岳会である。そのために会を創設したリーダーの意向で女性の入会を認めていなかった。
今時は差別だとクレームが付きそうであるが、一つには若い会員が多く異性問題が会の活動の足を引っ張ることを懸念していたのではないかと思う。
しかしこの日、誰が誘ったのか知らないが途中で別府市を拠点に活動している二豊山岳会の若い女性二人が合流した。
大分RCCの会員には二豊山学会出身者もいて親交は深い。ことさら若い会員には娘さん達との山行は大いに魅力的であったと思う。
また九州では珍しい雪山の、それも氷雪の登攀の素晴らしさを伝えたい気持ちもあったのだと思う。
大崩谷の入り口へ着いたのは、別府市で彼女らとの待ち合わせなどで予定より遅れて8時近くになっていた。
その頃の私は大分市内のコーヒー専門店で働いていた。店は繁華街にあり日曜日は稼ぎ時で、この日は午後1時からの勤務だった。
大崩谷なら、6時に大分市を出発すれば、昼までには帰って来れる計算だった。
そのため登山開始が一時間近く遅れた事に少し苛立っていた。
大崩谷の下部は大小の岩石が堆積した上に10センチ近く積もった雪に足を取られて、歩き辛くきつい登りだった。 遅れを取り戻そうとピッチを上げるが後続のメンバーのスピードは遅くついて来ない。
谷の真ん中あたりにある涸滝の下のルンゼに達した時には、皆とはかなりの距離が開いていた。一人『和田の兄ちゃん』だけが追いついて来た。
下方から江っさんが「オーイそんなに急ぐな、まってろ!」と叫んできたが、私も『和田の兄ちゃん』もかなりイライラしていた。
若い女の子にかまってチンタラチンタラ登って、大崩谷はそんなノンビリした所じゃないぞ!と。
和田の兄ちゃんは「チャンコ(私のニックネーム)、先に登ろう」と、涸滝の登攀の為にザイルを取り出した。
私は大崩谷を幾度も登っていて、この谷の怖さはよく知っている。谷の岩は脆く、積雪と氷点下の冷え込んだ時だけが登攀の対象になる。
気温が上がると凍った壁が緩んで落石が始まる。また谷は北向きに大きくえぐれているために右側の壁は東向きで日が高くなり日射しが当たり出すと、氷でコンクリートされた石が急速に緩んで、パラパラとはげ落ちて来る。
涸滝の上は大きなすり鉢状なっていてジョウゴのような地形である。落下した石は全てこの涸滝とその下のルンゼに加速しながら集まった来る。
大崩谷の核心部は落石の危険にさらされているのだ。
冬季、岩壁の上部に日射しが当たり出すのは10時前後、そのために大崩谷の登攀は10時迄に終えるか、少なくとも涸滝を登り終えていなければならない。
そんな事は登攀リーダーの江っさんは百も承知である。ただ、この日の大崩谷は充分すぎる積雪があり、空は雲で覆われて日中でもさほど気温の変化はなく、落石の心配は無いと考えていたようである。
その為に、技量と体力の劣る女性メンバーのスピードに合わせて登っていた。
しかし、私はと言えば昼からの仕事が気になって先を急いでいた。和田の兄ちゃんも、何かしら急いでいた様で、涸滝を登り終えた私達は下の仲間に「先に行きます!」と大声で告げて上部の雪壁を登っていった。
谷を抜けた後は、通常だと東峰へ向かい東登山道を下るのだが、かなりの時間をロスした私達は谷を抜けて、直ぐの所にある沢を真っすぐに降り40分程で下山した。
麓の道路を大崩谷の入り口の林道に停めている車まで歩いていると、後ろから一台の車が走って来て私達の真横で止まった。
見ると二豊山岳会の会長のケイさんだった。ケイさんは緊張した顔で「乗れ、遭難だ!」と私達をせかした。
私と和田の兄ちゃんは訳も分からないまま後部座席に乗り込んだ。「雪崩に巻き込まれた!」ケイさんの話を聞いても事態が呑み込めない。しかし尋常でない事はケイさんの表情から分かった。
谷の入り口の林道には車両侵入防止の鎖が張っている。鎖は施錠されていたがケイさんは鎖を張っている支柱の方を力まかせに引き抜いて鎖を外し、林道へ車を乗り入れた。
林道の行き止まりで車から降りると、ケイさんの「急げ!」というかけ声に駆け出す。
私と和田の兄ちゃんは大崩を登った後でかなりくたびれていたがケイさんの後を必死で追いかけていく。途中で突然に和田の兄ちゃんが膝を着いてヘナヘナと座りこんで、ひと言、「チャンコ、後は頼む!」
私もクタクタで倒れられるものなら倒れたい! うなずいて駆け続けた。
砂防ダムを超えると大崩谷の取り付き、ルンゼの下の白い雪面に赤や青の登山ウエァーを着た仲間が点々と見えた。
彼らに何があったのかは、私は現場にいなかったので分からない。ワタの書いた『今どき破天荒な男たちの物語』を参照してほしい。
その記事に欠けている事項として、この雪崩から逃れた『サブちゃん』の話を少し書く。以下サブちゃんから聞いた話である。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
雪崩が発生した時、既にサブちゃんは涸滝を登り終えていた。足元の雪面が一斉に崩れ出し、とっさに雪面を蹴って右の側壁の岩場に飛びのいたが他のメンバーは雪崩と共にルンデを滑り落ていった。
サブちゃんは涸滝を落ちるようにして降り谷を駆け下り、ワタと一緒に仲間を雪から掘り出した後、一人林道を下り、城島高原まで車をとばし電話ボックスへたどり着いてケイさんに遭難を知らせ、大崩谷へとって返し仲間の救助に当たった。
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雪崩にあった仲間達は負傷した身体にも関わらず自力で下山している。私はルンゼの下まで登って行き、そんな仲間に肩を貸して下から支えるようにしてガラ場の谷を下った。一人降ろすと、また登って次の仲間の身体を支えて降る。
二人目に降ろした仲間は阿蘇山で亡くなった岡○さんの弟だ。彼は肋骨を折っているようで脇下から身体を支えようとすると痛がって拒んだ。腕を下げると肋骨を圧迫して激痛が走るため両腕を上に伸ばした姿勢で、痛みに堪えフラフラしながら降りて行く。私は横から彼が転ばない様に支えながら歩調を合わせて降った。
大崩谷を登った後、救助の為に麓のガラ場を二度も登り降りしてクタクタだった。これなら遭難者の方がましだ!と思ったものである。
二人目を降ろした頃、湯布院町の消防団がやって来たが、その時には全ての仲間は林道近くまで下山していた。 ケイさんが救援に来る前に消防と警察へ連絡していたのだと思う、救急車がサイレンを鳴らしながら林道を登って来た。
私の役目はようやく終わった。今日は日曜日で勤務先の店は大忙しだ、仕事へ行かなけれは店の皆に迷惑をかける。大急ぎ大分市へ帰り出勤した。
店の勝手口から顔を覗かせると、マスターが目をつり上げている。午後5時、4時間の遅刻だ。ピークタイムは終わっている。
「由布岳で、雪崩で、・・・」と説明するが九州の大分県で、雪崩?
他の店員も白い目を私に向けて来るだけだ。
私はこのコーヒー専門店の主任のような役割をしていた。閉店後店の掃除、レジを締め売上や現金有高を帳簿に付け仕事を終えたのは深夜の12時近くだった。
昨夜の忘年会から、実に長い一日だった。
翌日、大崩谷の事故は大分県の地方紙『大分合同新聞』の朝刊一面トップに写真入りでデカデカと載った。
店へ行くと、オーナーや従業員が「昨日は大変だったんだな」と言ってきた。新聞を見て、ようやく理解したようだ。
一つ名誉の為に言っておくと、新聞の記事では消防団が救助したかの様に書かれていた。しかし先に書いた通り殆どはパーティーの自力で下山したのだ。(それと二豊山学会のケイさん)
江っさんは新聞を見て、「しまった!こんなに大きく取り上げるとは思っていなかった。こんな事なら梅木さんにおさえてもらうんだった!」と言ったが後の祭りである。
梅木さんは大分県の山岳界の重鎮で大分合同新聞社でかなりの役職にいた。江っさんは21歳の時、アフガニスタンのヒンズークシュ山脈、コーイ・モンデの遠征以来お世話になっていた。
一週間後の日曜日、江っさんは他の大分RCCの仲間と再び大崩谷へ入った。雪崩の現場検証をするためだ。
涸滝の上の雪崩が発生した地点まで登り、雪面の断面から雪崩の原因を調べ、巻き尺で雪崩の止まったデブリまでの距離や幅を測量した。
手元にその資料がないので詳細は分からないが、雪崩の距離はおおよそ500メートルであったと記憶している。
雪崩の原因は、最初に積もった雪の表面が一度溶けて、その後の冷え込みで凍り、雪面に氷の層ができた。その上にこの数日の雪が50センチ程積もり、その雪が下の氷面を滑り台のようにして崩た表層雪崩と考えられる。
以上が大崩谷雪崩事故の私の記録というか思い出である。当時のメモや記録は無く、38年前の記憶だけで書いている。記憶違いで間違った事を書いているかもしれない。
人それぞれの見方がある、この記録を見て間違いの訂正や意見をいただければ、幸いである。
平成28年5月某日 江藤(文) 記
『ワタ』が昭和56年ころ、『アドバンス大分』という大分県の経済ローカル誌に連載したドキュメンタリー風の物語の一部である。
当時、私は24歳でその雪崩事故にあったパーティーの一人であるが、この記録に私は登場しない。浦島太郎のブログを読んで、この事故の私の記録を書きたくなった。
大崩谷雪崩事故のあったのは昭和53年。もう38年前の事だ。その年の暮れ12月22日の土曜日、私の所属する山岳会『大分RCC』の忘年会が大分市内の小さなビジネスホテルの広間で行なわれていた。
男ばかりの会員、十数人が飲めや歌えの酒宴である。山男は酒が強く歌が好きだ。更に分大山岳部OBの会員は芸達者で大いに盛り上がっていた。
この年は九州にしては珍しく降雪が多く、その日は大分市内でも大粒の雪が降って いた。大分RCCの連中は、この雪を見てジッとしていられるような者はいない。酒の勢いもあって「明日は大崩へ行くぞぉ!」と一人が叫ぶと、「オオー!」と盛り上がり深夜までの宴会にもかかわらず翌朝6時には数台の車に分譲して由布岳目指して出発した。
大分RCCは『大分ロック・クライミング・クラブ』の略である。その名の通り岩登りや冬山の氷壁登攀を目的とし、アルプスやヒマラヤの山々を目指したハードな山岳会である。そのために会を創設したリーダーの意向で女性の入会を認めていなかった。
今時は差別だとクレームが付きそうであるが、一つには若い会員が多く異性問題が会の活動の足を引っ張ることを懸念していたのではないかと思う。
しかしこの日、誰が誘ったのか知らないが途中で別府市を拠点に活動している二豊山岳会の若い女性二人が合流した。
大分RCCの会員には二豊山学会出身者もいて親交は深い。ことさら若い会員には娘さん達との山行は大いに魅力的であったと思う。
また九州では珍しい雪山の、それも氷雪の登攀の素晴らしさを伝えたい気持ちもあったのだと思う。
大崩谷の入り口へ着いたのは、別府市で彼女らとの待ち合わせなどで予定より遅れて8時近くになっていた。
その頃の私は大分市内のコーヒー専門店で働いていた。店は繁華街にあり日曜日は稼ぎ時で、この日は午後1時からの勤務だった。
大崩谷なら、6時に大分市を出発すれば、昼までには帰って来れる計算だった。
そのため登山開始が一時間近く遅れた事に少し苛立っていた。
大崩谷の下部は大小の岩石が堆積した上に10センチ近く積もった雪に足を取られて、歩き辛くきつい登りだった。 遅れを取り戻そうとピッチを上げるが後続のメンバーのスピードは遅くついて来ない。
谷の真ん中あたりにある涸滝の下のルンゼに達した時には、皆とはかなりの距離が開いていた。一人『和田の兄ちゃん』だけが追いついて来た。
下方から江っさんが「オーイそんなに急ぐな、まってろ!」と叫んできたが、私も『和田の兄ちゃん』もかなりイライラしていた。
若い女の子にかまってチンタラチンタラ登って、大崩谷はそんなノンビリした所じゃないぞ!と。
和田の兄ちゃんは「チャンコ(私のニックネーム)、先に登ろう」と、涸滝の登攀の為にザイルを取り出した。
私は大崩谷を幾度も登っていて、この谷の怖さはよく知っている。谷の岩は脆く、積雪と氷点下の冷え込んだ時だけが登攀の対象になる。
気温が上がると凍った壁が緩んで落石が始まる。また谷は北向きに大きくえぐれているために右側の壁は東向きで日が高くなり日射しが当たり出すと、氷でコンクリートされた石が急速に緩んで、パラパラとはげ落ちて来る。
涸滝の上は大きなすり鉢状なっていてジョウゴのような地形である。落下した石は全てこの涸滝とその下のルンゼに加速しながら集まった来る。
大崩谷の核心部は落石の危険にさらされているのだ。
冬季、岩壁の上部に日射しが当たり出すのは10時前後、そのために大崩谷の登攀は10時迄に終えるか、少なくとも涸滝を登り終えていなければならない。
そんな事は登攀リーダーの江っさんは百も承知である。ただ、この日の大崩谷は充分すぎる積雪があり、空は雲で覆われて日中でもさほど気温の変化はなく、落石の心配は無いと考えていたようである。
その為に、技量と体力の劣る女性メンバーのスピードに合わせて登っていた。
しかし、私はと言えば昼からの仕事が気になって先を急いでいた。和田の兄ちゃんも、何かしら急いでいた様で、涸滝を登り終えた私達は下の仲間に「先に行きます!」と大声で告げて上部の雪壁を登っていった。
谷を抜けた後は、通常だと東峰へ向かい東登山道を下るのだが、かなりの時間をロスした私達は谷を抜けて、直ぐの所にある沢を真っすぐに降り40分程で下山した。
麓の道路を大崩谷の入り口の林道に停めている車まで歩いていると、後ろから一台の車が走って来て私達の真横で止まった。
見ると二豊山岳会の会長のケイさんだった。ケイさんは緊張した顔で「乗れ、遭難だ!」と私達をせかした。
私と和田の兄ちゃんは訳も分からないまま後部座席に乗り込んだ。「雪崩に巻き込まれた!」ケイさんの話を聞いても事態が呑み込めない。しかし尋常でない事はケイさんの表情から分かった。
谷の入り口の林道には車両侵入防止の鎖が張っている。鎖は施錠されていたがケイさんは鎖を張っている支柱の方を力まかせに引き抜いて鎖を外し、林道へ車を乗り入れた。
林道の行き止まりで車から降りると、ケイさんの「急げ!」というかけ声に駆け出す。
私と和田の兄ちゃんは大崩を登った後でかなりくたびれていたがケイさんの後を必死で追いかけていく。途中で突然に和田の兄ちゃんが膝を着いてヘナヘナと座りこんで、ひと言、「チャンコ、後は頼む!」
私もクタクタで倒れられるものなら倒れたい! うなずいて駆け続けた。
砂防ダムを超えると大崩谷の取り付き、ルンゼの下の白い雪面に赤や青の登山ウエァーを着た仲間が点々と見えた。
彼らに何があったのかは、私は現場にいなかったので分からない。ワタの書いた『今どき破天荒な男たちの物語』を参照してほしい。
その記事に欠けている事項として、この雪崩から逃れた『サブちゃん』の話を少し書く。以下サブちゃんから聞いた話である。
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雪崩が発生した時、既にサブちゃんは涸滝を登り終えていた。足元の雪面が一斉に崩れ出し、とっさに雪面を蹴って右の側壁の岩場に飛びのいたが他のメンバーは雪崩と共にルンデを滑り落ていった。
サブちゃんは涸滝を落ちるようにして降り谷を駆け下り、ワタと一緒に仲間を雪から掘り出した後、一人林道を下り、城島高原まで車をとばし電話ボックスへたどり着いてケイさんに遭難を知らせ、大崩谷へとって返し仲間の救助に当たった。
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雪崩にあった仲間達は負傷した身体にも関わらず自力で下山している。私はルンゼの下まで登って行き、そんな仲間に肩を貸して下から支えるようにしてガラ場の谷を下った。一人降ろすと、また登って次の仲間の身体を支えて降る。
二人目に降ろした仲間は阿蘇山で亡くなった岡○さんの弟だ。彼は肋骨を折っているようで脇下から身体を支えようとすると痛がって拒んだ。腕を下げると肋骨を圧迫して激痛が走るため両腕を上に伸ばした姿勢で、痛みに堪えフラフラしながら降りて行く。私は横から彼が転ばない様に支えながら歩調を合わせて降った。
大崩谷を登った後、救助の為に麓のガラ場を二度も登り降りしてクタクタだった。これなら遭難者の方がましだ!と思ったものである。
二人目を降ろした頃、湯布院町の消防団がやって来たが、その時には全ての仲間は林道近くまで下山していた。 ケイさんが救援に来る前に消防と警察へ連絡していたのだと思う、救急車がサイレンを鳴らしながら林道を登って来た。
私の役目はようやく終わった。今日は日曜日で勤務先の店は大忙しだ、仕事へ行かなけれは店の皆に迷惑をかける。大急ぎ大分市へ帰り出勤した。
店の勝手口から顔を覗かせると、マスターが目をつり上げている。午後5時、4時間の遅刻だ。ピークタイムは終わっている。
「由布岳で、雪崩で、・・・」と説明するが九州の大分県で、雪崩?
他の店員も白い目を私に向けて来るだけだ。
私はこのコーヒー専門店の主任のような役割をしていた。閉店後店の掃除、レジを締め売上や現金有高を帳簿に付け仕事を終えたのは深夜の12時近くだった。
昨夜の忘年会から、実に長い一日だった。
翌日、大崩谷の事故は大分県の地方紙『大分合同新聞』の朝刊一面トップに写真入りでデカデカと載った。
店へ行くと、オーナーや従業員が「昨日は大変だったんだな」と言ってきた。新聞を見て、ようやく理解したようだ。
一つ名誉の為に言っておくと、新聞の記事では消防団が救助したかの様に書かれていた。しかし先に書いた通り殆どはパーティーの自力で下山したのだ。(それと二豊山学会のケイさん)
江っさんは新聞を見て、「しまった!こんなに大きく取り上げるとは思っていなかった。こんな事なら梅木さんにおさえてもらうんだった!」と言ったが後の祭りである。
梅木さんは大分県の山岳界の重鎮で大分合同新聞社でかなりの役職にいた。江っさんは21歳の時、アフガニスタンのヒンズークシュ山脈、コーイ・モンデの遠征以来お世話になっていた。
一週間後の日曜日、江っさんは他の大分RCCの仲間と再び大崩谷へ入った。雪崩の現場検証をするためだ。
涸滝の上の雪崩が発生した地点まで登り、雪面の断面から雪崩の原因を調べ、巻き尺で雪崩の止まったデブリまでの距離や幅を測量した。
手元にその資料がないので詳細は分からないが、雪崩の距離はおおよそ500メートルであったと記憶している。
雪崩の原因は、最初に積もった雪の表面が一度溶けて、その後の冷え込みで凍り、雪面に氷の層ができた。その上にこの数日の雪が50センチ程積もり、その雪が下の氷面を滑り台のようにして崩た表層雪崩と考えられる。
以上が大崩谷雪崩事故の私の記録というか思い出である。当時のメモや記録は無く、38年前の記憶だけで書いている。記憶違いで間違った事を書いているかもしれない。
人それぞれの見方がある、この記録を見て間違いの訂正や意見をいただければ、幸いである。
平成28年5月某日 江藤(文) 記
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