2016年5月11日水曜日

大崩谷雪崩(おおがれだになだれ)事故

 浦島太郎のブログに大崩谷の記事がある。そこに九州では非常に珍しい雪崩事故の話が書かれていている。また事故の当事者の一人である、浦島太郎が通称『問題児』とよんでいる『ワタ』という男の書いた物語的記録がある。
 『ワタ』が昭和56年ころ、『アドバンス大分』という大分県の経済ローカル誌に連載したドキュメンタリー風の物語の一部である。

 当時、私は24歳でその雪崩事故にあったパーティーの一人であるが、この記録に私は登場しない。浦島太郎のブログを読んで、この事故の私の記録を書きたくなった。


 大崩谷雪崩事故のあったのは昭和53年。もう38年前の事だ。その年の暮れ12月22日の土曜日、私の所属する山岳会『大分RCC』の忘年会が大分市内の小さなビジネスホテルの広間で行なわれていた。
 男ばかりの会員、十数人が飲めや歌えの酒宴である。山男は酒が強く歌が好きだ。更に分大山岳部OBの会員は芸達者で大いに盛り上がっていた。

 この年は九州にしては珍しく降雪が多く、その日は大分市内でも大粒の雪が降って いた。大分RCCの連中は、この雪を見てジッとしていられるような者はいない。酒の勢いもあって「明日は大崩へ行くぞぉ!」と一人が叫ぶと、「オオー!」と盛り上がり深夜までの宴会にもかかわらず翌朝6時には数台の車に分譲して由布岳目指して出発した。

 大分RCCは『大分ロック・クライミング・クラブ』の略である。その名の通り岩登りや冬山の氷壁登攀を目的とし、アルプスやヒマラヤの山々を目指したハードな山岳会である。そのために会を創設したリーダーの意向で女性の入会を認めていなかった。
 今時は差別だとクレームが付きそうであるが、一つには若い会員が多く異性問題が会の活動の足を引っ張ることを懸念していたのではないかと思う。

 しかしこの日、誰が誘ったのか知らないが途中で別府市を拠点に活動している二豊山岳会の若い女性二人が合流した。
 大分RCCの会員には二豊山学会出身者もいて親交は深い。ことさら若い会員には娘さん達との山行は大いに魅力的であったと思う。
 また九州では珍しい雪山の、それも氷雪の登攀の素晴らしさを伝えたい気持ちもあったのだと思う。
 大崩谷の入り口へ着いたのは、別府市で彼女らとの待ち合わせなどで予定より遅れて8時近くになっていた。

 その頃の私は大分市内のコーヒー専門店で働いていた。店は繁華街にあり日曜日は稼ぎ時で、この日は午後1時からの勤務だった。
 大崩谷なら、6時に大分市を出発すれば、昼までには帰って来れる計算だった。
 そのため登山開始が一時間近く遅れた事に少し苛立っていた。

 大崩谷の下部は大小の岩石が堆積した上に10センチ近く積もった雪に足を取られて、歩き辛くきつい登りだった。 遅れを取り戻そうとピッチを上げるが後続のメンバーのスピードは遅くついて来ない。

 谷の真ん中あたりにある涸滝の下のルンゼに達した時には、皆とはかなりの距離が開いていた。一人『和田の兄ちゃん』だけが追いついて来た。
 下方から江っさんが「オーイそんなに急ぐな、まってろ!」と叫んできたが、私も『和田の兄ちゃん』もかなりイライラしていた。
 若い女の子にかまってチンタラチンタラ登って、大崩谷はそんなノンビリした所じゃないぞ!と。
 和田の兄ちゃんは「チャンコ(私のニックネーム)、先に登ろう」と、涸滝の登攀の為にザイルを取り出した。


 私は大崩谷を幾度も登っていて、この谷の怖さはよく知っている。谷の岩は脆く、積雪と氷点下の冷え込んだ時だけが登攀の対象になる。
 気温が上がると凍った壁が緩んで落石が始まる。また谷は北向きに大きくえぐれているために右側の壁は東向きで日が高くなり日射しが当たり出すと、氷でコンクリートされた石が急速に緩んで、パラパラとはげ落ちて来る。

 涸滝の上は大きなすり鉢状なっていてジョウゴのような地形である。落下した石は全てこの涸滝とその下のルンゼに加速しながら集まった来る。
 大崩谷の核心部は落石の危険にさらされているのだ。

 冬季、岩壁の上部に日射しが当たり出すのは10時前後、そのために大崩谷の登攀は10時迄に終えるか、少なくとも涸滝を登り終えていなければならない。

 そんな事は登攀リーダーの江っさんは百も承知である。ただ、この日の大崩谷は充分すぎる積雪があり、空は雲で覆われて日中でもさほど気温の変化はなく、落石の心配は無いと考えていたようである。
 その為に、技量と体力の劣る女性メンバーのスピードに合わせて登っていた。

 しかし、私はと言えば昼からの仕事が気になって先を急いでいた。和田の兄ちゃんも、何かしら急いでいた様で、涸滝を登り終えた私達は下の仲間に「先に行きます!」と大声で告げて上部の雪壁を登っていった。

 谷を抜けた後は、通常だと東峰へ向かい東登山道を下るのだが、かなりの時間をロスした私達は谷を抜けて、直ぐの所にある沢を真っすぐに降り40分程で下山した。
 麓の道路を大崩谷の入り口の林道に停めている車まで歩いていると、後ろから一台の車が走って来て私達の真横で止まった。
 見ると二豊山岳会の会長のケイさんだった。ケイさんは緊張した顔で「乗れ、遭難だ!」と私達をせかした。

 私と和田の兄ちゃんは訳も分からないまま後部座席に乗り込んだ。「雪崩に巻き込まれた!」ケイさんの話を聞いても事態が呑み込めない。しかし尋常でない事はケイさんの表情から分かった。

 谷の入り口の林道には車両侵入防止の鎖が張っている。鎖は施錠されていたがケイさんは鎖を張っている支柱の方を力まかせに引き抜いて鎖を外し、林道へ車を乗り入れた。

 林道の行き止まりで車から降りると、ケイさんの「急げ!」というかけ声に駆け出す。
 私と和田の兄ちゃんは大崩を登った後でかなりくたびれていたがケイさんの後を必死で追いかけていく。途中で突然に和田の兄ちゃんが膝を着いてヘナヘナと座りこんで、ひと言、「チャンコ、後は頼む!」
 私もクタクタで倒れられるものなら倒れたい! うなずいて駆け続けた。

 砂防ダムを超えると大崩谷の取り付き、ルンゼの下の白い雪面に赤や青の登山ウエァーを着た仲間が点々と見えた。
 彼らに何があったのかは、私は現場にいなかったので分からない。ワタの書いた『今どき破天荒な男たちの物語』を参照してほしい。
 その記事に欠けている事項として、この雪崩から逃れた『サブちゃん』の話を少し書く。以下サブちゃんから聞いた話である。

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 雪崩が発生した時、既にサブちゃんは涸滝を登り終えていた。足元の雪面が一斉に崩れ出し、とっさに雪面を蹴って右の側壁の岩場に飛びのいたが他のメンバーは雪崩と共にルンデを滑り落ていった。
 サブちゃんは涸滝を落ちるようにして降り谷を駆け下り、ワタと一緒に仲間を雪から掘り出した後、一人林道を下り、城島高原まで車をとばし電話ボックスへたどり着いてケイさんに遭難を知らせ、大崩谷へとって返し仲間の救助に当たった。
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 雪崩にあった仲間達は負傷した身体にも関わらず自力で下山している。私はルンゼの下まで登って行き、そんな仲間に肩を貸して下から支えるようにしてガラ場の谷を下った。一人降ろすと、また登って次の仲間の身体を支えて降る。
 二人目に降ろした仲間は阿蘇山で亡くなった岡○さんの弟だ。彼は肋骨を折っているようで脇下から身体を支えようとすると痛がって拒んだ。腕を下げると肋骨を圧迫して激痛が走るため両腕を上に伸ばした姿勢で、痛みに堪えフラフラしながら降りて行く。私は横から彼が転ばない様に支えながら歩調を合わせて降った。
 大崩谷を登った後、救助の為に麓のガラ場を二度も登り降りしてクタクタだった。これなら遭難者の方がましだ!と思ったものである。

 二人目を降ろした頃、湯布院町の消防団がやって来たが、その時には全ての仲間は林道近くまで下山していた。 ケイさんが救援に来る前に消防と警察へ連絡していたのだと思う、救急車がサイレンを鳴らしながら林道を登って来た。

 私の役目はようやく終わった。今日は日曜日で勤務先の店は大忙しだ、仕事へ行かなけれは店の皆に迷惑をかける。大急ぎ大分市へ帰り出勤した。
 店の勝手口から顔を覗かせると、マスターが目をつり上げている。午後5時、4時間の遅刻だ。ピークタイムは終わっている。
 「由布岳で、雪崩で、・・・」と説明するが九州の大分県で、雪崩?
 他の店員も白い目を私に向けて来るだけだ。

 私はこのコーヒー専門店の主任のような役割をしていた。閉店後店の掃除、レジを締め売上や現金有高を帳簿に付け仕事を終えたのは深夜の12時近くだった。
 昨夜の忘年会から、実に長い一日だった。


 翌日、大崩谷の事故は大分県の地方紙『大分合同新聞』の朝刊一面トップに写真入りでデカデカと載った。
 店へ行くと、オーナーや従業員が「昨日は大変だったんだな」と言ってきた。新聞を見て、ようやく理解したようだ。

 一つ名誉の為に言っておくと、新聞の記事では消防団が救助したかの様に書かれていた。しかし先に書いた通り殆どはパーティーの自力で下山したのだ。(それと二豊山学会のケイさん)

 江っさんは新聞を見て、「しまった!こんなに大きく取り上げるとは思っていなかった。こんな事なら梅木さんにおさえてもらうんだった!」と言ったが後の祭りである。
 梅木さんは大分県の山岳界の重鎮で大分合同新聞社でかなりの役職にいた。江っさんは21歳の時、アフガニスタンのヒンズークシュ山脈、コーイ・モンデの遠征以来お世話になっていた。


 一週間後の日曜日、江っさんは他の大分RCCの仲間と再び大崩谷へ入った。雪崩の現場検証をするためだ。
 涸滝の上の雪崩が発生した地点まで登り、雪面の断面から雪崩の原因を調べ、巻き尺で雪崩の止まったデブリまでの距離や幅を測量した。

 手元にその資料がないので詳細は分からないが、雪崩の距離はおおよそ500メートルであったと記憶している。
 雪崩の原因は、最初に積もった雪の表面が一度溶けて、その後の冷え込みで凍り、雪面に氷の層ができた。その上にこの数日の雪が50センチ程積もり、その雪が下の氷面を滑り台のようにして崩た表層雪崩と考えられる。


 以上が大崩谷雪崩事故の私の記録というか思い出である。当時のメモや記録は無く、38年前の記憶だけで書いている。記憶違いで間違った事を書いているかもしれない。
 人それぞれの見方がある、この記録を見て間違いの訂正や意見をいただければ、幸いである。

平成28年5月某日  江藤(文) 記